自分ちに帰ってまいりました。ひさびさにダラ?ッ。そして酒飲んで、↓を見て。
「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」
前作からずっと僕が言ってきたことですが、「ちゃんと腰をすえて描かなければならない人間が多すぎる」。結構叩かれてた井上敏樹脚本の平成ライダー2作(「アギト」「ファイズ」)だって、ストーリーの根幹は「あかつき号事件」(アギト)、「オルフェノクという存在」(ファイズ)に集約できるんです。まとめれば全体を通した話自体はそうややこしいものじゃない。ただ、謎を引っ張りすぎた感はありますが(1年のシリーズを見させるという点においては「うまい」とは思いましたが)。
けれど、このDESTINYに関してはもう滅茶苦茶で、その滅茶苦茶さを象徴的に表した回だったと思います。
前回、ミーアを餌にラクス・キラ・アスラン・メイリンをノコノコと誘い出したプラントがラクスを亡き者にしようとしましたが、土壇場でミーアがラクスの盾になって銃弾を受け、倒れました。そして、そのバッグから日記が書かれたディスクを見つけたアークエンジェルご一行様がディスクを再生しながらミーアという人物を振り返る、まあ体の良い総集編(笑)。あと3話しか残ってないのにこの期におよんで総集編やるかい。いや、まあ制作側が意図したのは決して総集編というわけでは無いんでしょうが…。
ミーア・キャンベルというのは、ラクスが去ったあとのプラントにおいて、そのラクスの絶対的なカリスマ性を利用したい評議会議長のデュランダルが替え玉に据えた女の子です。議長を信じて、平和な世界を願う彼女が「何故か」いなくなってしまったラクス・クラインの身代わりとして「私、頑張らなくちゃ」と奮闘する様を前半で描きました。利用されていることを知らずに純粋に平和を願ってあえて替え玉という地位を望んだ彼女を描くことは悪いとは思いません。
ただ、それを彼女のモノローグとして一方的に10分しゃべるだけで表現してしまったことが、あまりの制作側の技量の無さとして呆れてしまいます。そういうことは、これまでのストーリーの中で描くべきでしょう。何につけてもそうです。レイの存在。某ちゃんねるとかを見ていると彼の出生の秘密とやらが最後に明かされるらしいですが、それに説得力を持たせるような行動を今まで彼がしてきましたか?単なる脇の地味キャラに終始していたとしか思えません。ネオがムウの記憶を取り戻したのかどうかも、ハッキリした描写はナシです。
前作でも、キラが実はコーディネーターの中でも特別な存在だったということが最後の最後で明かされましたが、そんな複線は一切ありませんでした。きょうだいでありながら片方はコーディネーターであり、片方はナチュラルだったというキラとカガリの関係も、おいしいネタでありながら全く生かされませんでした。「どうやって戦争を終わらせる?」というバルトフェルトの問いかけに答えることがキラの成長になる話のはずだったのに、「僕は何と戦わなけりゃならないのか分かったから…」と言いつつもそれが何なのか具体的には全く触れず、またそれを分からせるような展開もせずに、最終回のラストシーンでそのキラに「僕たちは何故こんなところに来てしまったんだろう…」と言わせる始末。
クルーゼはムウの父親のクローンでしたが、主人公でない人間にそんな重たい設定を背負わせるのは間違いだと思います。SEED2作の「描かなければならない人間が多すぎる」の一番の間違いはここだと思う。ムウは単なる「良き兄貴」でいいじゃないですか。キラの「特別なコーディネーター」とムウの「父親のクローン」、1年のシリーズを描くにはどちらか一方で充分でしょう。
そして、レイ。おそらくクルーゼのクローンかそれに近い存在なんでしょうが、それでアークエンジェルご一行様を執拗に恨んでるとしても、その描写は全く不足しています。100年以上前に書かれた「ダルタニャン物語」第二部ではミレディの息子モードントが4銃士をヘビのようにつけ狙いますが、あちらの方が1万倍くらいよく書かれています。
某ちゃんねるでは「第3部を見越して中途半端な終わり方をするんじゃないか」とか言われてますが、決してそんなことにはなりませんように…もしなるのなら、スタッフ(少なくとも監督とシリーズ構成)総入れ替えになりますように…(笑)。
監督のフグ田は「嫌なら見なきゃいいのに、『ガンダム』だってだけでみんな見るんですよ。文句言いながら」とか逆ギレしてましたけど、そういう十字架を背負ってるんですよ、『ガンダム』は。